安倍首相と国民にお願いしたいこと

2020.8/11(火)、晴れ  
安倍首相にお願いしたいこと。
1.新型コロナ対策で、もっと国民に語り掛けてください。多くの国民、特に中小の事業者はお先真っ暗の状態です。首相は日本のリーダーです。「新型コロナは専門家も分からないことが多く、難しい舵取りが必要な状況が続いています。しかし私は常に国民の皆さんと共にあります。」くらいの演説をやって欲しい。
2.別荘に出かけて緑を見て、息抜きして、リラックスして、「心身の充実を心がけて」、 その上で重要な方針の策定をやってください。「私も自粛していま~す」ではマスコミの攻撃はないでしょうが、それでは困ります。マスコミから攻撃されても、適切な方針や語りかけで国民を味方にして乗り切ってほしい。

国民、マスコミにお願いしたいこと。
1.東京都民の安倍さんが軽井沢に行って休憩しても、とっちめないでください。マスコミの方、特にお願いします。
一国のリーダーはただでさえストレスの塊のようなものでしょう。加えて現在は、専門家もよくわからない新型コロナで心身をすり減らしているはずです。少なくとも、このタイミングで誰かに代わっても同じです。だからリラックスしてもらって間違いのない方針決定をしてもらいたいのです。自衛隊のヘリコプターを使って軽井沢の別荘に行っても構わないじゃないですか。
 2.リーダーは庶民と役割が違うことを分かってください。 ときどきマスコミで、現在は新型コロナとの戦争だ、現在の首相は戦争やっている時のリーダーだ、と言われることがあります。それが分かるならばですが、連隊長や軍艦の艦長は一兵卒と同じ気持ちではいけないことを分かるべきです。心身リラックスして英気をやしない、間違いのない方針を決定するゆとりが必要です。非常時に方針が間違ったらいくら兵卒が頑張ってもどうにもなりません。
 3.政治家に聖人君子を求めるのは止めよう。政治家、特に首相は自国民のためになる正しい方針決定が最優先事項です。破廉恥では困りますが、しかし聖人君子であっても、若者に仕事や生きがいを与えられず、外国からバカにされ攻め込まれたら失格です。重箱の隅をつついて聖人君子でないからダメだ~というのではなく、経済を回して国民を飢えさせz、外国からバカにされない状況を維持できれば、政治家としてはそれでいいじゃないですか。

もし総理大臣だったら

もし総理大臣だったら、 以下のことをやる。 支持率上がるだろうな~

1.8月、10月にも国民全員に10万円ずつ配る。(インフレ目標達成にも役立つし)

3.与野党に、国民の命と暮らしを守るために必要なことだと説明して協力を求める。 与野党とも異存は無かろう。
しかしこんなうまいことやられたら野党の面目が立たないし、じゃぶじゃぶカネ使ってると財政立て直しを進めたい財務省は怒るかも~

2.マイナンバーカードに銀行口座を1つ登録した人には実施日に即日振り込む(登録したくない人はしなくても良いが、登録してない人の振り込み時期は自治体によって異なる) ・・・これで20%程度と言われているマイナンバーカードの取得率も80%くらいまで急増するだろう。
銀行口座の登録は自由意思で決めるのだから、民放テレビのコメンテータ達も異存は無かろう、・・・いやそう簡単ではない。「自由意志と言いながら給付金をちらつかせて、全国民にマイナンバーカードを取らせ銀行口座の登録を有無を言わせずやってしまうやり方は議会無視であり、現政権の得意とするところで、こんなやり方を真の民主主義と言えるのかー!」など息巻いてコメントすると、またまた視聴率が上がるかも~

4.マイナンバーカードに銀行口座をインターネット経由で登録できる体制を7月20日までに作る。(目標が明確になれば現在のIT社会ではすぐやれる) 
政権幹部のお知り合いでない会社に発注するように、よーく調べて手配しておかないと~

5.総理大臣自身が、この体制の必要性と、新制度は一時的に間違いの起きる事もあるがそれは避けられない問題であり、被害は国が補償する、などとテレビを通して直接国民に何度も話す。


変化できる種族は生き残る

2020.6/26(金)、曇り 「ダーウィンは、唯一生き残ることができるのは変化できる者であると言った」との政治PRの話しが、進化論を知らぬバカみたいに批判されているそうです。私はこの批判は、面白おかしく重箱の隅をつつく議論に思えて仕方がありません。この批判は視聴率稼ぎのマスコミが喜びそうなものです。しかしせっかくの才能とマスコミという手段を持っている方々には、重箱の隅をつつくのではなく、PRが取り上げた内容自体を議論してほしいものです。

なぜ重箱の隅か・・・「者」ということを字面どおりに「1つの個体」と考えれば間違いであることは誰でも知っていることです。例えば、頑張って首を伸ばしたキリンが生き延びたわけじゃなくて、突然変異で首が少し長いキリンが生まれた際にそれが環境に適していたので生き延びることになり、何代かそれが続いた結果現在のように長い首のキリンだけになったことは誰でも知っています。
政治家が「変化できる者」と言ったときの「者」を、遺伝子が変わって首を長くできた子孫を含めた集団、つまり「者達」というように複数形で考えたらどうでしょうか。そうすれば「生き残ることができるのは変化できる者達(集団)」と言えるじゃないですか。 遺伝学者は、「者」は個体であり「者達」とは言ってないから間違いだ、と言うでしょうが、間違った印象を与えない様に注意しましょう、と言えば済む程度の事ではないでしょうか。 

 例えとして、日本を2つに分けて考えてみました。例えば、古い法律を怖くて一切変更できないA国と、状況に合わせるために皆でよく考えて怖さを乗り越えて法律を変えたB国に分けてみます。
生物を構成している細胞は、人間のような意志は持たないので、突然変異によって「でたらめ」に変化した細胞によってできた個体のうち環境に適した者だけが生き延び、適しなかった「他の多くの個体が死ぬ」ことになる。
しかし国レベルの場合は、構成単位が結果を予想して選択できる意志を持った人間なので望ましい妥当な変更をする。だから「でたらめ」に変わるのじゃないので、適さない選択は多くの場合なされず「多くの国が死ぬ」ことはない。
さて、法律を変えないA国と変えたB国はどちらが生き延びるだろうか?
 信長時代のおきてや、江戸時代の武家諸法度や、明治時代の法律を守る国が生き延びられるでしょうか?
 多分、法律を変えられたB国が生き延びるでしょう。A国は国際環境・新技術・国民の意識変化に適合できずやがて国民を統制できなくなり、国民がB国の方式を少しずつ取り入れていくことになり、A国はやがて消えてしまう(淘汰される)でしょう。
こう考えれば「生き残ることができるのは、変化できる者達(集団、種族、国)である」と言えます。そこのところを踏まえておけば、ダーウィンの進化論を持ち出しても間違いじゃないと思うのですが。

どこか間違っていればコメントに書いてご連絡ください。

簡単な日本語を使おう

2020.2/17(月)、小雨 最近の日本語は不必要な長ったらしい言い回しが多すぎると思いませんか?

72歳を過ぎた自分が古いのか、平和ボケした日本人が言葉の本質を忘れて敵を作らないための意味不明のゴテゴテとした文を付けてボカしているだけの事か。
例を挙げる。

●「・・・させていただきました」と言う表現。「・・・しました」と言えば済むものが大半である。
「・・・させていただきました」という言い方は、昔からの使い方としては、相手に許しを請う表現であろう。「本来は○○にすべきだが、それが準備できないので申し訳ありませんが今回は、・・・にさせていただきました」などである。
それと似ているものとして、「(その料金では貧弱な○○しか準備できないが、長いお付き合いでもあるので今回は一段上の)・・・にさせていただきました」などがある。これは許しを請うのではなく、自分の好意をへりくだった表現にしているものだ。しかし本当は「・・・してやったんだぜ、忘れるなよ」という裏の意味を含んでいるように思う。
「・・・させていただきました」は、最近は丁寧な表現としてあちこちで使われているようである。そのような丁寧表現が必要な場合もある。しかし政治家や役人などが頻繁に使っているのを聞くとおかしくて仕方がない。「本年の予算は5兆円にさせていただきました」などと言う人が多い。これなどは「本年の予算は5兆円にしました」と言えば十分であるが、そう言うと反論されそうなので柔らかくするために「させていただきました」と言ってるようだ。反論しないでくれ、と言いたいようだ。裁判官の判決言い渡しの席で「禁固5年、執行猶予2年に処する」などと言う一方で、法務第大臣などが説明するような機会に「禁固5年、執行猶予2年にさせていただきました」などと言うことを聞く。そのうちに「死刑にさせていただいた次第です」などの発言を聞くことになるのだろうか。

「・・・させていただきました」と言う言い方は口癖みたいに言うのは止めよう。必要な時だけにしよう。

●もう一つ。「・・・とかあるじゃないですか」もおかしい。「・・・があります」と言えば良いのに、なぜか「とか」と言い「・・・じゃないですか」と言う。
たぶん、「Aがあります」と言うと、「そうじゃないだろう」などと反論を誘発する恐れがあるのでぼかしているのだろう。反論を封じて身を守っているのだろう。「AとかBがある」と言いたいのだがBを省略していると思わせたいのだろう。(しかし本当はBを認識していないにもかかわらず。)
「・・・あるじゃないですか」は相手に同意を求める表現と、昔聞いたことがあるが、さらに、相手が考え付いたように思わせる表現と言えないだろうか。「Aです」と言うと自分が知っていることを自慢しているように思われ嫌われる恐れがある。それは嫌だから、「Aがあるじゃないですか」と言って相手が自分で「Aがあるな」と考え付いたような気分にさせる、と言えないだろうか。
高級な話術ともいえるが、そのような気遣いばかりやっていて、最近多くなっていると思える傍若無人な外国人と渡り合っていけるのだろうか?

●「・・・なのかな~と思います」と言う言い方の多様も2点おかしい。「なのかな」とその後を伸ばす言い方である。「なのかな」は自信を持てないが多分そうだろうと考える推量を示す場合に使うべきものであり、そういう場合に使うのは妥当である。ところが最近は、自分の言いたいことは明確なのだがそう言うと反論される恐れがあるのでそれを封じ込めるため自分の意見をぼかす手段として使われている。そんな使い方をしていては日本語が壊れてしまう。
例えば、友人が集会に来なかった場合に「何か急な事態が起きて来れなかったのかな」と言うのは良い。しかし、急に学校が休みになった場合に「もっと早く連絡もらえば良かったかなと思います」等の使い方はおかしい。この場合には「かな」は不要である。「もっと早く連絡もらえば良かったと思います」と言えば良いのだ。自信をもって自分の意見を発言しよう。
もう一つの文節の最後を伸ばす言い方はノンビリしている気分を表すものとして使って良い場面もあるが、不適切なケースを聞くことが多い。JR列車遅延の放送で駅員が「列車は先ほどの地震のための安全確認のため遅れていま~す」などと聞くと、大丈夫かなと心配になる。まさか「放射能が漏れていま~す」などとは言わないだろう。
「御社に就職しても良いかな~って思っています」などと言われたら面接担当者は困るだろうな。

●「・・・になります」と言う言い方。これは「・・・です」で十分であるのに、親切のつもりで使うのだろうか。
「こちらがご注文のものになります」と言われると、「今から変わるのかな~」などと思いかねない。「こちらがご注文のものです」で十分である。
以前あるとき医者に行って料金払った後、受付の女性が「次の予約になりますね~」とだんだん上げながら言った。上げながら言ったことが原因の1つだろうがまず何を言ってるのかさっぱり聞き取れず、聞き直したがそのたびに同じ言い方をするので2,3回も聞いてしまった。次に、言葉は分かったがその意味が分からなかった。本当のことだが「あ、そうなるんですか、で?」と聞いてしまった。そこで先方はまた同じことを繰り返した。そんなことを繰り返して、ようやく先方は次の予約の日時を決めたいと言ってることが分かった。
こっちの理解力が落ちているのかもしれないが、標準日本語で話してくれればわかるんだけどね。

●「ご案内の通り・・・」と言う言い方も気持ちが悪い。「ご存じの通り・・・」とか「分かってるだろうが・・・」と言うことのようである。10年くらい前のHという政治家が頻繁に利用していたが嫌になった。政治家が言うと「知ってるだろう、俺は説明をしないよ」とか「俺の理解と同じだろう」と言ってる訳であり、それでは政治家の場合は逃げである。政治家の役は果たせない。事態を知らない人や、一応知ってるが解釈できないでいる人に自分の意見を伝えて一つの方向にまとめていく、引っ張っていくのが政治家ではないか。民主主義では全員が一致する法案は存在しない。勝手なことを考えるから良いのだが、それでは政策はまとまらない。そこを全員一致ではないが次善の策として最大多数の方向にまとめていくのが政治家であろう。
「あんたは自分の意見を言ってないじゃないか、おれは新聞で読んだりテレビで見て知ってるけど、あんたの理解とはたぶん違うと思うよ」と言いたくなる。

●「・・・してございます」、原発事故の際に東電の人が頻繁にこの表現を使っていたのを記憶している。「防波堤の高さは10mにしてございます」などと慇懃(いんぎん)な言い方を聞くたびにバカにされているような、嫌な思いをした。「防波堤の高さは10mにしています」で十分である。
何が嫌な感じを引き起こすのか考えた。10mか15mかの技術的な数値の話をしているのに、営業的な丁寧語が入ることで焦点がぼかされてしまう、騙されてしまう印象をもったように思う。慇懃無礼というか、逆に真摯な態度が伝わらない気がした。

●逆に簡単にしすぎている例。「感激を与えたいと思います」などと選手が言うのを耳にすることがあるが、これは間違った表現だ。選手が心の中で「感激を与えたい」と思うのは勝手なことだ。しかしそんなことを考えてプレーするのだろうか?
良い試合をしたい、力いっぱい試合をしたい、と思っているのでないだろうか。だったらそう言えばいいのに。
選手が頑張ってプレーをしているのを観客が見て「感激を与えられた」というのは正しい。しかし、選手が言う場合には「喜んでもらえるようなプレーをしたい」と言うのが最適だと思う。
微妙であるが、「感激してもらえるようなプレーをしたい」も少し言い過ぎだと思う。「感激」と言う言葉自体、選手側から言い出す言葉ではないのではないだろうか。なぜならその意味は「強く心に感じて、気持ちがたかぶること」と言うような意味だからだ。選手が、観客に「強く心に感じさせ、気持ちがたかぶらせたいと思います」と言うとおかしいではないか。

大げさな表現は止めてほしい

2018.1/24(水)、晴れ 一昨日夕方、東京は退勤時の列車が乱れて大変だったようです。

ところがそれを伝えるインターネットのニュースの見出しに「首都圏が阿鼻叫喚・・・」と書いてあるものがありました。若い人が書いているのだろうが、阿鼻叫喚という表現は適切ではないと思います。テレビで見ていた限りだが、阿鼻叫喚のようなものは1つもありませんでした。

記事を読んでもらうために過激な表現をしているのでしょうが、こんな姑息な手段で読者を引きつけようとするのは反則ワザです。

他にも、最近はいろいろ過激な表現が目立ちます。

号泣した・・・悲しかったのか逆に感激したかで涙ぐんだ程度のことを号泣したという言い方が流行っています。これは間違った使い方です。号泣とは、あたりをはばからず身をなげうって大きく泣くようなことを表すものです。本当に号泣する状態との区別ができなくなってしまいます。

激怒する・・・「私は怒った」程度のことを激怒すると言うのが流行っているようです。激怒するとは、身をよじらせて激しく怒るような場合に使うべきものです。安易に使うと、ホントに激怒するときに何といえば良いのか分からなくなります。

とはいううものの、昔から大げさな表現はありましたけどね。

必死でやる、必死の思いでやる、など・・・必ず死ぬような気持ちでやっていない場合でも気楽に「必死でがんばった」などと使っています。