ジャガイモを植え付けた

2020.2/29(土)、曇り 数日前、2/25(火)に切っていたジャガイモを植え付けました。普通は3/20日頃なのですが、暖かい日が続くので早めに植えてみました。
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16個なので畝の間隔を十分あけられます。そのせいで高くするのも簡単です。今年はまともなジャガイモができそうです。肥料も、まず根モノに効果のあるカリ肥料をやって、さらに化成肥料もチッソ-リン酸-カリの割合が14-14-14のものを撒きました。普通は8-8-8なのですが。とはいえこの違いがよく分かりません。多く巻けば8-8-8でも同じじゃないかと思っていますが・・・?
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植え方は毎年やってるように切り口を上に向けるやり方です。切ってから4日くらい放置して保護膜ができたころに植えています。

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まだ寒いのでビニールを2重にして掛けてみました。

3/6(金)にはぐんと冷え込んで、大きな霜柱ができました。まだ芽が出ていないので助かりました。(~_~;
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3/9(月)・・・あれ以来暖かい雨の日は覆いを取り、寒くなりそうだと覆いを掛け、何度も取ったり掛けたりしています。まだ芽はでません。

鏡の時計はなぜ逆に見えるか

2020.2/26(水)、曇り時々小雨 新型肺炎のコロナウイルスが流行しつつあり、不要不急の外出や会合は控えるのが良さそうな世の動きです。

暇をもてあまし、鏡に映る時計の文字盤がなぜ逆に見えるのか、実験しながら考えてみました。
下の写真は普通に壁にかかった時計です。
2020-02-26 11.51.11

下の写真は、これを鏡に映したものですが左右逆に見えます。上下はそのままで、左右だけ逆に見えます。
これと似ているものとしては、紙の(左右回転によりその)文字が左右逆転して見えることを先に説明しました。
ところがこの時計では、時計を左右に回転していないのになぜか左右逆に見えます。不思議です。
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なぜ時計を鏡に映すと左右が逆に見えるのか?

その説明として、鏡には正しい時計のまま映っているが、自分(見る人)が左右に反転しているから左右逆向きに見える、ではどうでしょうか。

もう少し詳しく説明します。

下の写真は壁の時計と、その上に手鏡に映った時計を撮影したものです。これを見ると鏡に映った時計は左右はそのままですが、上下が逆に見えませんか?
これは鏡を上下に(150度くらい)回転させているので上下が逆に見えるわけです。
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だから下の写真のように、鏡を離すことで上下の回転が少なくなり左右の回転が加わると、上下逆に見える印象が薄れ、左右逆に見えるように変わっていきます。
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鏡が水平になって、壁の時計と反対の位置にくると、自分が逆向き(つまり水平に反転している)ので時計は左右が逆に見えるわけです。
2020-02-26 11.51.06b

ところで、もう一つ面白いことがあります。

それは、画面の方に付いているレンズ(インカメラ)で撮影するときのことです。インカメラによる撮影は自撮りでよく使われます。
(ただし自撮りは画面と反対に付いている主カメラ(アウトカメラ)でも行えます。)

下の写真はスマホのインカメラにより、壁の時計と自分の頭が少し映っているところです。
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時計をよく見ると左右が逆になっています。鏡と同じようです。
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ところが、この状態でシャッターを押して撮影したのが下の写真です。不思議なことに時計は正常な向きに写っています。つまり撮影画面で見ているものと逆向きに撮影されるのです。不思議ですね。
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その答えは、これはスマホの設定によるものです。スマホの自撮りでよく使うインカメラ(表示画面側のレンズ)を有効にすると「反転画像として保存」などの設定になり、このように撮影されるのです。この設定を外せば時計は左右逆向きに撮影されます。

ただし、自撮りにおいても、背面のカメラ(アウトカメラ)を使って撮影すると常に正しい向きの時計が表示されます。
また、(普通の)デジカメでレンズを自分の方に向けて撮影しても常に正しい向きの時計が撮影されます。

つまりインカメラ(画面側のレンズ)では、画面を見るときは鏡のように左右が逆のように見え、撮影すると普通のデジカメ(やアウトカメラ)のように写るわけです。

桜の手入れ

2020.2/22(土)、曇りのち晴れ 堂平団地の第2公園の5本の桜に肥料をやりました。1カ月ほど前、参加者を募集し合計12名で実施しました。
2017年7月が初めで、今回で4回目になります。合計で、5本の桜に対して深さ10~30cmの穴を100カ所掘って20キロの化成肥料と45キロのケイフンをやったことになります。(ケイフンは今回が最初)
また数十年の間、桜の周囲は踏み固められているので、手入れにより桜の周囲1mあまりの芝を10~20cm程度掘り起こし肥料や腐葉土を入れました。

昨日夕方の天気予報では、午前6時、9時と小雨だったので、日立市でやる神峰公園の桜の施肥は中止になりました。ところが私はこれまでの経験でこのような予報ではやれると自信がありました。
朝になって予報を見ると午前6時は2mmくらい降っていますが、9時にはもう止んでいます。8時になると日が差してきました。その後すぐに曇りになりましたが。
最近4年くらい毎朝ラジオ体操をやって、その時点の天気と参加人数を記録しています。これまで何度か6時15分頃まで雨が降っていても6時半には雨が止むよなことを経験しました。またラジオ体操が終わったとたんに降り出すようなこともありました。そんなことで朝の天気の変化が分かるようになったのかもしれません。

募集案内の回覧物です。
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今回は化成肥料5Kg、ケイフン45Kg、腐葉土3袋などを準備しました。腐葉土は買うと高いので近くの階段に溜まっていた枯れ葉などを事前に集めてきました。
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花咲かじーさんと昔乙女の皆さんです。お茶の差し入れがありました。また肥料などは寄付金で賄っています。
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5本の桜のそれぞれに、深さ30cmの穴を5か所ずつ掘って肥料を入れ、腐葉土を混ぜつつ土をもどします。
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穴の位置は、根が伸びている所、伸びていそうな所です。
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3本については、周囲1、2mの芝をはいで10~20cmくらい掘って、肥料をやって腐葉土と土をかぶせました。桜の根は浅い所で栄養を吸収するそうです。一昨年やったとき2本については同じ事をやってあるのですが、この部分は毛根が伸びていました。栄養を吸収しているようです。
午後になったら晴れてきました。
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土を被せて終わりです。この後で水を掛けたりして、芝の上に散らばっている土を芝の下に沈めることをやります。2020-02-22 14.50.30

簡単な日本語を使おう

2020.2/17(月)、小雨 最近の日本語は不必要な長ったらしい言い回しが多すぎると思いませんか?

72歳を過ぎた自分が古いのか、平和ボケした日本人が言葉の本質を忘れて敵を作らないための意味不明のゴテゴテとした文を付けてボカしているだけの事か。
例を挙げる。

●「・・・させていただきました」と言う表現。「・・・しました」と言えば済むものが大半である。
「・・・させていただきました」という言い方は、昔からの使い方としては、相手に許しを請う表現であろう。「本来は○○にすべきだが、それが準備できないので申し訳ありませんが今回は、・・・にさせていただきました」などである。
それと似ているものとして、「(その料金では貧弱な○○しか準備できないが、長いお付き合いでもあるので今回は一段上の)・・・にさせていただきました」などがある。これは許しを請うのではなく、自分の好意をへりくだった表現にしているものだ。しかし本当は「・・・してやったんだぜ、忘れるなよ」という裏の意味を含んでいるように思う。
「・・・させていただきました」は、最近は丁寧な表現としてあちこちで使われているようである。そのような丁寧表現が必要な場合もある。しかし政治家や役人などが頻繁に使っているのを聞くとおかしくて仕方がない。「本年の予算は5兆円にさせていただきました」などと言う人が多い。これなどは「本年の予算は5兆円にしました」と言えば十分であるが、そう言うと反論されそうなので柔らかくするために「させていただきました」と言ってるようだ。反論しないでくれ、と言いたいようだ。裁判官の判決言い渡しの席で「禁固5年、執行猶予2年に処する」などと言う一方で、法務第大臣などが説明するような機会に「禁固5年、執行猶予2年にさせていただきました」などと言うことを聞く。そのうちに「死刑にさせていただいた次第です」などの発言を聞くことになるのだろうか。

「・・・させていただきました」と言う言い方は口癖みたいに言うのは止めよう。必要な時だけにしよう。

●もう一つ。「・・・とかあるじゃないですか」もおかしい。「・・・があります」と言えば良いのに、なぜか「とか」と言い「・・・じゃないですか」と言う。
たぶん、「Aがあります」と言うと、「そうじゃないだろう」などと反論を誘発する恐れがあるのでぼかしているのだろう。反論を封じて身を守っているのだろう。「AとかBがある」と言いたいのだがBを省略していると思わせたいのだろう。(しかし本当はBを認識していないにもかかわらず。)
「・・・あるじゃないですか」は相手に同意を求める表現と、昔聞いたことがあるが、さらに、相手が考え付いたように思わせる表現と言えないだろうか。「Aです」と言うと自分が知っていることを自慢しているように思われ嫌われる恐れがある。それは嫌だから、「Aがあるじゃないですか」と言って相手が自分で「Aがあるな」と考え付いたような気分にさせる、と言えないだろうか。
高級な話術ともいえるが、そのような気遣いばかりやっていて、最近多くなっていると思える傍若無人な外国人と渡り合っていけるのだろうか?

●「・・・なのかな~と思います」と言う言い方の多様も2点おかしい。「なのかな」とその後を伸ばす言い方である。「なのかな」は自信を持てないが多分そうだろうと考える推量を示す場合に使うべきものであり、そういう場合に使うのは妥当である。ところが最近は、自分の言いたいことは明確なのだがそう言うと反論される恐れがあるのでそれを封じ込めるため自分の意見をぼかす手段として使われている。そんな使い方をしていては日本語が壊れてしまう。
例えば、友人が集会に来なかった場合に「何か急な事態が起きて来れなかったのかな」と言うのは良い。しかし、急に学校が休みになった場合に「もっと早く連絡もらえば良かったかなと思います」等の使い方はおかしい。この場合には「かな」は不要である。「もっと早く連絡もらえば良かったと思います」と言えば良いのだ。自信をもって自分の意見を発言しよう。
もう一つの文節の最後を伸ばす言い方はノンビリしている気分を表すものとして使って良い場面もあるが、不適切なケースを聞くことが多い。JR列車遅延の放送で駅員が「列車は先ほどの地震のための安全確認のため遅れていま~す」などと聞くと、大丈夫かなと心配になる。まさか「放射能が漏れていま~す」などとは言わないだろう。
「御社に就職しても良いかな~って思っています」などと言われたら面接担当者は困るだろうな。

●「・・・になります」と言う言い方。これは「・・・です」で十分であるのに、親切のつもりで使うのだろうか。
「こちらがご注文のものになります」と言われると、「今から変わるのかな~」などと思いかねない。「こちらがご注文のものです」で十分である。
以前あるとき医者に行って料金払った後、受付の女性が「次の予約になりますね~」とだんだん上げながら言った。上げながら言ったことが原因の1つだろうがまず何を言ってるのかさっぱり聞き取れず、聞き直したがそのたびに同じ言い方をするので2,3回も聞いてしまった。次に、言葉は分かったがその意味が分からなかった。本当のことだが「あ、そうなるんですか、で?」と聞いてしまった。そこで先方はまた同じことを繰り返した。そんなことを繰り返して、ようやく先方は次の予約の日時を決めたいと言ってることが分かった。
こっちの理解力が落ちているのかもしれないが、標準日本語で話してくれればわかるんだけどね。

●「ご案内の通り・・・」と言う言い方も気持ちが悪い。「ご存じの通り・・・」とか「分かってるだろうが・・・」と言うことのようである。10年くらい前のHという政治家が頻繁に利用していたが嫌になった。政治家が言うと「知ってるだろう、俺は説明をしないよ」とか「俺の理解と同じだろう」と言ってる訳であり、それでは政治家の場合は逃げである。政治家の役は果たせない。事態を知らない人や、一応知ってるが解釈できないでいる人に自分の意見を伝えて一つの方向にまとめていく、引っ張っていくのが政治家ではないか。民主主義では全員が一致する法案は存在しない。勝手なことを考えるから良いのだが、それでは政策はまとまらない。そこを全員一致ではないが次善の策として最大多数の方向にまとめていくのが政治家であろう。
「あんたは自分の意見を言ってないじゃないか、おれは新聞で読んだりテレビで見て知ってるけど、あんたの理解とはたぶん違うと思うよ」と言いたくなる。

●「・・・してございます」、原発事故の際に東電の人が頻繁にこの表現を使っていたのを記憶している。「防波堤の高さは10mにしてございます」などと慇懃(いんぎん)な言い方を聞くたびにバカにされているような、嫌な思いをした。「防波堤の高さは10mにしています」で十分である。
何が嫌な感じを引き起こすのか考えた。10mか15mかの技術的な数値の話をしているのに、営業的な丁寧語が入ることで焦点がぼかされてしまう、騙されてしまう印象をもったように思う。慇懃無礼というか、逆に真摯な態度が伝わらない気がした。

●逆に簡単にしすぎている例。「感激を与えたいと思います」などと選手が言うのを耳にすることがあるが、これは間違った表現だ。選手が心の中で「感激を与えたい」と思うのは勝手なことだ。しかしそんなことを考えてプレーするのだろうか?
良い試合をしたい、力いっぱい試合をしたい、と思っているのでないだろうか。だったらそう言えばいいのに。
選手が頑張ってプレーをしているのを観客が見て「感激を与えられた」というのは正しい。しかし、選手が言う場合には「喜んでもらえるようなプレーをしたい」と言うのが最適だと思う。
微妙であるが、「感激してもらえるようなプレーをしたい」も少し言い過ぎだと思う。「感激」と言う言葉自体、選手側から言い出す言葉ではないのではないだろうか。なぜならその意味は「強く心に感じて、気持ちがたかぶること」と言うような意味だからだ。選手が、観客に「強く心に感じさせ、気持ちがたかぶらせたいと思います」と言うとおかしいではないか。