タカサゴユリが満開

2013.8/26(月)、晴れ 久しぶりの快晴。面倒だった仕事がひとつ昨日で終わって今日は晴れ晴れ。

奥のタカサゴユリが満開に近い状態です。数が多いので迫力があります。雑草のように何処にでも咲くタカサゴユリですが、土と栄養の条件がそろえばこんなにみごとに咲きそろいます。
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春先に食べたピーマンの種から芽立ったらしいピーマンがぐんぐん大きくなっています。まだまだ暑いぞ、頑張れピーマン。右下写真は20日のもの。
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そろそろ黄色ミニトマトが盛りを過ぎて収穫量が減ってきました。あと半月もすれば、食べ過ぎてお腹が重くなったことも今年の思い出になります。
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季節はどんどん進みます。多忙だったこの一週間は特に速かった・・・。パソコンで仕事をしていると、インターネットで調べ物をしたついでに別ものを調べてしまいます。
会津藩の家老の娘(山川捨松)がどうして、薩摩の大山巌の奥さんになったのか以前から不思議でしたが、ネットには丁寧に書いてありました。
6才の頃に会津城中で戦い、そこから兄達と一緒に下北半島の斗南藩に移り、食糧不足のためか函館の知り合いの家に預けられ、そこでフランス人宣教師と知り合い、そして斗南藩の消滅後、兄達と東京に出て、政府の海外留学に女性として初めて11歳で参加した。(津田梅子も6歳で一緒に行ったとか!!)
同じ年、大山巌は留学先のスイスに向けて出発。捨松は単身、米国東海岸に行き、とはいえ捨松には先に留学していた次兄の山川健次郎がいた、捨松は英語を完全にマスターし日本人女性として初めて米国の大学の本科を卒業。
10年くらいで帰国したが日本語が怪しくなっていた帰国子女は職なしでブラブラの後、鹿児島弁が分からかなったので英語で会話したという大山巌と気が合って後添いになり、鹿鳴館の華として活躍。大山巌はスイスを3年で離れて帰国し日露戦争で活躍。
山本八重にしろ捨松にしろ、必死に勉強し、激動の時代を乗り切って行ったのが分かります。生きる場所は今いる所だ、との自覚があったのでしょう。会津をはじめとする武士は男も女も過去にとらわれずに今を生き抜く力を持っていたようです。
そういえば、会津軍で大活躍した佐川官兵衛は、斗南藩をへて東京で一等大警部になり、その後明治10年の西南戦争では小隊長として阿蘇で大活躍したが戦死。官兵衛は指揮する官軍の略奪乱暴を厳しく戒め、そのため地元住民から慕われ、死後は南阿蘇に十数カ所の佐川官兵衛慰霊碑ができたそうです。
会津出身だからと少しは差別があったようですが、このように活躍していけたのは、人物本位で採用して行った当時の政府側の態度と共に、本人達の過去に引きずられない気持が大いに役立ったように思います。
当然ですが、打撃が大きくて立ち治れずにダメになった人たちもいたようです。歴史に残るのは図太く生きた人達だけです・・・。

トマトの上のカラス除け。大きいのは黒いビニールを引きちぎったもの。引きちぎるのが効果があるらしいです。右の小さいのはカラスの本当の羽根。
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皇帝ダリアの葉が黄緑になっています。一株から3,4本も出ている右のが一番目立ちます。下枝の中には葉先が完全に黒くなって枯れているのもあります。全体を守るために優先順位を付けて枯れさせているようです。夏の水不足、日照りの影響と思います。
今日は晴れますが、数日前の雨でまだ地面が湿っていますので水の心配は不要でしょう。
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