■■■■■メールマガジン;六車技術士事務所■■■■■  2014.4.20

■コツは公表しない方が良いのか?

 新技術の詳細なコツは公開しないのが良いのでしょうか?

 日経新聞電子版4/19(土)によると、理化学研究所が設置した「研
究不正再発防止のための改革委員会」の岸輝雄委員長は、4/18(金)
に「特許のからみで本当に偉大な発表は隠しておくこともある。
(隠すことの)是非も十分配慮した議論にならなければいけない」
と語った、そうです。

 これは実に紛らわしい発言と私には思えます。

 この発言を一般の人が聞くと、次のように間違うのではないでし
ょうか?
「特許制度があるから重要な研究成果は細部が発表されないことがある」

 理研(または日経新聞)は特許制度を誤解しているように思えます。

 理研の立場で考えれば、例えば発表会の直前になって完成した成
果などは「特許出願がまだ終わっていないので詳細は公開できない」
場合がある、と言うのでしょう。

 しかし秘密にしたいのならそこまで言及しなければ良いのです。
特許出願していないのに関係する事柄をうかつにしゃべるのは研究
者の態度として間違っています。成功したけど秘密だよ、などと発
言すると他人は一生懸命その近辺を探すでしょう。もしかするとそ
の他人が先に秘密事項を発表して特許を取ってしまうかも知れませ
ん。そうなったら属する組織や国に損失をあたえることになります。

 私は次のように考えています。

「研究者は自分の優位性を保つために肝心の所はできるだけ長く秘
密にしておきたいものだろう。しかし特許制度においては、平均的
な技術者が再現できるように細部まで詳細に出願し(公開し)た人
に新技術公開の代償として特許権が与えられる。先に事実を解明し
ていても詳細を公開しなかった人には特許は与えられない。だから、
『重要な研究成果こそ早く詳細に特許出願』する必要がある。しか
し特許出願の明細書に詳細を書いたとしても、1年半は公開されな
いからその間に出来るだけ次の研究を進めなければならない。」

 その点iPS細胞の山中教授は、正しい行動をされています。山
中さんは特許出願に詳細を書いたろうし、そののち論文を発表した
はずです。だからこそ重要な特許を取得されています。
 ※特許出願より論文発表が早くても6ヶ月間は新規性喪失の例外
  規定があるが、不利なことも多いのであくまで例外とすべき。

 先日、研究者の知人とSTAP細胞の件で雑談をしました。その
知人は特許もいくらか取っている人なのですが、「ものすごい新技
術の場合は詳細を公表したくないのも分かるね」と言いまして、大
変な違和感を感じました。

 世の中に、特許出願しないで仲間内の秘密の技術(ノウハウ)と
しておく技術があることは確かです。例えば、万が一他人に特許を
取られても顕現性がないので実施しても分からないものとか、機密
管理体制がよほどシッカリしているとか、大した経済的価値のない
清涼飲料水の成分などではそうかも知れません。しかし、一般の重
要技術はそうではありません。

 小保方さんの最初の特許はアメリカにおいて、2012年4月に出願
され、そののちPCT出願になり、2013年10月にPCT公開公報と
して発行されています。その特許に、コツ(詳細なやり方)を書い
ていないと言うことであり、現在までの2年間もの間そのコツを公
表せず、今後もしばらくは公表しないようです。

★もし誰かが先にそのコツを公表したら・・・
 そうしたら新技術を公表した代償としてその誰かに特許が与えら
れ、小保方さんは先に自分が解明していたと主張しても特許を取れ
ないだけでなく、たぶんノーベル賞ももらえないでしょう。

 その一方で論文を発表したり、存在すると記者会見を開いて世の
耳目を集めて刺激し、まるで「誰か先にコツを探して発表してくだ
さい、権利は全部差し上げます」と言っているように見えて仕方が
ありません。

 もしコツが実在するのならば、小保方さんのやっていることは非
常に危険な行為と思えます。個人的な知的財産の問題だけでなく、
国家の危機管理上の重大問題です。

 普通の人なら、天地をひっくり返すほどの新技術の詳細なコツを
2年以上にわたって秘密にしておくことはできないでしょう。
誰かに先に公開されて特許を取られると考えるだけで頭がおかしく
なるのではないでしょうか?

 ・・・私の知人は特許制度について納得してくれましたが、私は
あらためて驚きました。企業の研究者でも、特許制度の根底に関し
てはその程度の認識なんですね。

 なお蛇足ですが、多能性幹細胞に関しては、東北大の出澤真理教
授らが2009年7月に米国出願して2011年3月に米国特許として(審査
前)公開され、これがPCT出願されその結果日本でも審査され第
5185443号(2013年4月17日)として日本でも登録されています。
79頁。妥当な程度に詳細に説明してあるので審査をパスしたものと
思われます。

 また、分割出願は2012年7月に日本にも出願され公開公報が発行さ
れています。特開2012-139246。45頁。下記にあります。
 http://www.patentcity.jp/patentcity/AA2012-139246.pdf

これには次のように書いてあります。

「生体がストレスに曝されたり、傷害を受けると休眠状態の組織幹
細胞が活性化され、組織再生に寄与することが知られている。」

「本発明者は・・・種々の方法でストレス刺激を与え・・・、生存
している細胞を集め、メチルセルロース(MC)含有培地中で浮遊培
養を行った。その結果、最大直径150μmまでの種々の大きさの胚様
体様細胞塊の形成が認められた。特に長時間のトリプシン処理を行
ったヒト皮膚線維芽細胞画分及びヒトMSC画分において、最も多く
の胚様体様細胞塊の形成率が認められた。・・・本発明者らは、
得られた胚様体様細胞塊中の細胞の特性を調べ、該細胞が多能性幹
細胞の特性を有していることを見出した。さらに、本発明者らは、
得られた胚様体様細胞塊中の細胞が従来報告されていた多能性幹細
胞が有しない特性を有することを見出しし、さらに、得られた細胞
塊中の細胞の発現タンパク質を調べ、従来報告されていたES細胞、
iPS細胞などの多能性幹細胞とは異なる発現パターンを示すことを
見出した。」

 私は、内容の詳細は理解できませんが、小保方さんのコツを聞か
ない現時点では、「ストレス刺激で多能性幹細胞を作ることは以前
から分かっていたんだなあ・・・」と思っています。

 
■昔々、その12・・・    前←  ⇒次

 イスタンブールの町はボスポラス海峡と隔てて東西に分かれており、ホテルや特許事務所は西側にありました。昼休みに東側に少し坂を下ると大きな船が数多く行き来するボスポラス海峡を見ることができました。

 夕方、南に歩くとやや小さめの海峡に出ました。ボスポラス海峡から西側に入り込んでいる金角湾というところで、大勢の人が行きかっている橋(あとで有名なガラタ橋と知った)に行ってみると、魚釣りの人がいっぱい並んでいました。夕日がきれいでした。
そういえば後年、誰かが書いた旅行記でやはりガラタ橋から見る夕日がきれいだというものがありました。


※たぶんトプカピ宮殿にあったアダムとイブ。何か東洋の雰囲気。

 金曜日に事務所が休みだというので喜んで朝からそのガラタ橋を渡って、旅行案内にグランドバザールと書いてある場所に行ってみました。ところが、全ての店が閉まって、広大なアーケードの天井の布がパタパタと揺れているだけです。金曜日はイスラム教では休みなので、事務所も休みだし、グランドバザールも休みだったようです。

 その近くにある有名なアヤソフィア寺院、ブルーモスク、トプカピ宮殿は開いており入ることができました。しかし、時間が少なく駆け足の見学になりました。考えてみれば、モスクは礼拝で混雑していそうなはずですが何処も空いていました。ケマル・アタチュルクの時代に厳格なイスラム主義から袂を分かって西欧化を図ったのですが、そのせいで礼拝に来る人は少ないのかもしれません。観光客は、2月の寒い時期ですから少なかったのでしょう。とはいえ晴れており寒さはあまり感じませんでした。

 途中から小学6年生くらいの男の子が、ニコニコ笑って日本人かと言いながら付いてきました。何処に行くのかと聞いてくるので、地理案内をさせてしまいました。申し訳ないことではありましたが、いろんな目的で近づいてくるのがいると聞いていたので用心しっぱなしでした。最後にはチップをやって別れたと思います。

 路地を歩いていたとき、ぐったりした子供を抱いた母親らしい人が物乞いをしていました。日本でも、私が小さい頃は物乞いが多かったのですが、東京オリンピックのころから物乞いは急速にいなくなり、昭和45年の大阪で開かれた万国博覧博覧会のころには全くいなくなったように思います。

 物乞い対策も日本を出るときに注意されていたのですが、可哀そうで100円くらいを出すともっとくれと言います。200円くらいやって離れると母親は頭を何度も下げています。と、ぐったりした子供が目を開けにこっと笑ってウィンクするではありませんか。ありゃりゃ。

 また、夕方になって路地を歩いていると、暗がりから頭にかぶり物をした老婆が出てきました。私とぶつかりそうになったのでよけると、そのおばあさんが「日本人ですか?」とかなり流暢な日本語で問いかけてきました。おっと危ない、と思いつつ話してみると「私は戦争前にマンチュリアに居ました」、「歳は50歳ちょっと」とのこと。マンチュリアは満州のこと。ずっと昔のことだな、と思ったのですが当時はまだ戦後33年しかたっていない時期でした。

 満州の新京は国際都市であり、中国人や日本人だけでなくロシア人、台湾人なども大勢いたそうです。トルコ人もいたのでしょうか。

 若いころ、20歳の頃に居たのでしょうが、深い皺を見るときっといろんなことがあったのだろうと思われました。「食事を一緒にどうですか?」と聞くと、いや私はこれで帰ります、と言って暗がりの路地に消えて行きました。あらためて周囲を見渡すと、白熱灯に照らされた宵闇せまるイスタンブールの薄暗い路地も建物も、露天の出店も飲食店の内装も全てセピア色でした。

 数日後、天気の良い午後のこと、ホテルの見晴らしのいい遊歩道をぶらついていましたら、ちょび髭を生やして黒いスーツにネクタイを決めた遊び人ふうのやせ形の男が近づいてきました。如何にも胡散臭い感じの雰囲気だと思ったら案の定、「私のカネをドルに変えてほしいのだが」と話しかけてきます。

 日本を出るときに、換金を持ちかけて財布を盗みとる輩がいるので要注意と聞いていましたので、あぁこれかと思いました。

 持ち合わせがないと言って後ろへ下がると相手は前に出てきます。小額で良いのだと離れません。危ない危ない。そうしていたら、ホントに偶然だったのですが、特許事務所の女性の一人が通りかかり、あら何しているの、と声を掛けてくれました。その紳士はサッと身をひるがえして去っていきました。危ないところでした。

 トルコ人は大変な親日家が多いそうですが、中にはいろんな人がいます。それまで治安上の心配をしたことは無かったのですが、良い勉強になりました。

 なお、トルコが親日国である理由は、明治時代のトルコ軍艦の難破を漁師を初めとして日本が助けたことなどであることを詳しく知ったのはその後しばらくしてからでした。
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