大連、旅順、瀋陽の旅  ⇒瀋陽  ⇒目次

 大連、旅順

 2010年7月、大連、旅順、203高地、瀋陽(昔の奉天)、それから、あまり聞きませんがその東南にある本渓という所にも行きました。
 大連、瀋陽ともに60数年前、日本人が立てた建物がたくさん残っていました。東京では大空襲のせいかあまり残っていないのに中国ではけっこう都心部に残っています。みな重厚で立派なものです。一方、ビジネス区らしき一帯には低階層の建物をかきわけて新しい高層ビルが林立し、経済発展真っ最中の意気込みが伝わってきます。そのまた一方で、瀋陽に向かう途中の農村は見渡す限りのトーモロコシ畑でした。


 名所旧跡の案内はすでにたくさんのホームページで書かれているので、できるだけ私の面白く感じたことをご紹介します。

 中国の地方自治体は、省⇒市⇒県⇒鎮⇒村の順だそうです。市と県の順序が日本と逆です。鎮というのはあまり聞きませんが、焼き物で有名な景徳鎮の鎮だということです。また直轄市は省なみの扱いだそうです。
 そういえば、市と市内という言い方を使い分けています。大連市の人口は600人くらいで市内は200万人などと。

 大連空港は町に近くて便利です。アパートらしきビル群、高度成長に駆け足の姿です。一面の茶色に圧倒されますが、この後ど多くのビルが茶色が基調でした、気分的に落ち着くのでしょうか。
 大連は中国語でダーリャンと言うそうで面倒なことと思っていました。ところが空港でDALIANの文字を見ると、確かに大がダで、連はリャンと読むのだろうなと変に納得。
 

 大連からバスで移動。旅順の203高地の上り口の案内板。ロシア語では書いてありません。
 

 203高地。日露戦争でロシアの機関銃のために日本軍が大勢死傷したところ。指揮官・参謀が優秀であることが重要と司馬遼太郎が「坂の上の雲」で繰り返し書いています。児玉源太郎の現実に即した変化自在の行動が輝いています。乃木将軍が爾霊山(にれいさん)と命名し、拾い集めた砲弾を鋳潰して作った慰霊塔がありました。
 大砲なども置かれていました。旅順港が遠くに見えました。この高地を超えて後方から大砲を旅順港まで飛ばしたというのが信じられないくらい遠くに見えます。日本にいると日露戦争というと歴史上のできごとと思いがちですが、これらを見ているとつい先ごろの出来事だったことが分かります。
  

 日露戦争でロシアとの調印式を行なった水師営にある、もともとは農家だった家。復元したものだそうですが、屋根には草が生え、外壁は大丈夫ですが内壁は崩れているところもあって本物のようでした。修理したいので、満鉄の遺品や炭鉱から出たメノウなどを買ってくれと言っていました。しかし、虫の入ったメノウが、ここでも、また他の所でも、あまりに多いのはどういうことか?、誰かが「あれは偽物ですよ、松脂を溶かして虫を入れて作ったものです」と言っていました。


旅順博物館の入り口では狛犬(オス)がニラミつけているような・・・
 

 昭和20年までは旅順の大和ホテルだったところが、今はやや小さなホテルを意味する「招待所」となっています。この3文字を見るとなぜか怖い感じ。そのホテル/招待所前には露天がいくつか並んでいました。
 

 川島芳子(清王朝のお姫様で日本の川島家に養子)の旧邸宅がありました。誰も住んでいないそうですが、国土が広いとはいえよく残っているものです。道路を隔てたその前にはガラス窓の敗れた工場か何かの跡地がありました。この辺は昭和20年ころで時計が止まっているように思えました。あちこちで感じたのですが、ここでも政治の安定は大切だな〜とつくづく感じました。日本もしっかりしないといけません。
  

 後で考えたこと・・・日本名・川島芳子(中国名・愛新覚羅顕シ)は旧日本軍に協力した罪で銃殺になったとされる一方で、その後も生存していた説が繰り返し出されています。助命工作が清王朝の関係者からさまざまの形であったようだし、人治の国・中国でそれらに逆らって銃殺を強行しても誰も得しません。うらみ骨髄で銃殺にしたのならば、このような建物を残しておくはずもありません。しかし、義経が生存していてジンギスカンになったというようなハナシも、証拠とされるさまざまなものがあるといわれます。さて何が真相でしょうか。私自身は生存説に関心があります。
 
 ホテルはツアーの標準クラス、大連渤海明珠大酒店(4つ星)でしたが広くて、エアコンも故障なくきちんと動いていました、バスとシャワーが別に付いている(部屋もある)アナログ式ですが体重計も置いてある、など5つ星に近い感じ。30階の円形展望食堂は眺めは良好。しかし、その展望食堂の窓は薄汚れているし、やや手狭です。朝食内容にもの足りない人もいるかもしれません。従業員の一部は、朝からあくびをしていたり、清潔さ不足など気の緩みを感じました。(やはり5つ星は無理か)


 旅行を終えて、体重が全く増えていなかったのは、この体重計や、また、旅行業者の豊富な経験による野菜が豊富で肉食の少ない(でている肉はうまくない)おかげだろうと思います。感謝しよう。

 鉄道の大連駅前の路上に「限停30秒」。停止は30秒に限るということでしょうが、実に分かりやすいです。というのは、日本では街中では時速40km制限がありますが誰も守っていません、順法精神が大切というのなら、守れないような時速制限などやるべきではないとつね日ごろ考えています。
 この停車も日本なら「停車禁止、ただし、短時間なら運用で許す」などとなるのでしょう。中国通の知人の意見から私の抱いている感じは「停車禁止、ただし、当局に顔がきくとか出すものを出せば数時間は可能」。そういうことで、数字でピシリと言っているのが中国らしくなく、まるでドイツかどこかのように思えました。とはいえ、30元出せば30分くらい可能かも・・・


 大連市内はオートバイは走れないそうで、(違法のもの)数台を見かけただけでした。日本だったらそんな法律を成立させるには100年くらいかかりそうです。
 大連駅前には大きなビルが林立していますが日本と何か違う感じがします。全体的に茶色でつや消しのためか、きれいに感じません。地震がないので作りがキャシャなためか、または低階層の建物などとの違和感かもしれません。


 ビル建設中ですが、一見すると壊しているのと間違いそうな進め方です。右下;暑いときは、大通りであろうとさっさと脱いでしまう身軽さ。これでもオリンピックでだいぶ良くなったのでしょうし、将来、中国が大きく経済発展すると急速にこのような景観はなくなるかも。
  

大連港近くのの古ぼけた建物に肩をすぼめるようにしてアジア号が入っていました。そのでかいことに驚きました。機関車というより鉄人28号に車輪を付けた感じです。動輪の直径は身長よりも大きな2m。新幹線と同じ広軌とはいえ、昭和10年台に最高時速130kmで走ったというのですから驚きです。
 上野からの常磐線のスーパーひたちも最高時速130kmで走っていますが、30数年前だったか最初に走ったときはその速さに驚いたものでした。
 

 大連市の中心は八方から道路が集まりサークルになっており、その中が今では中山公園と言われています。サークルの周りには多くの日本人の建設した品のいい建物が残されてます。左下は元・横浜銀行とか。公園の脇も地下鉄工事の真っ最中です。
※中山とは、清から袁世凱を経て中国の近代化を進めた「中国革命の父」といわれる孫文の号。なお孫文は袁世凱との抗争に敗れて1913〜1916年の間日本に亡命しており、明治維新から学ぶことも多かったようで、また日本の実業家も金銭的な支援をしたそうです。
 

 大連港を望む北側の丘に斜面にそって作られている旧日本人街。アカシヤの木陰を涼しい風が吹きぬけ、蒸し暑さがありません。いまはほとんどがレストランやおみやげ店などになっているそうです。
 

 路上でさくらんぼを売っていました。重さを計るのは、昔、九州の田舎で見て以来のチキリ(棒の一方に計るものを他方に分銅を乗せて釣り合いを見る棒計り)です。チキリというのは方言かと思っていたら、インターネットで詳しく説明してあるくらい昔はスタンダードな呼び名のようです。
 

 ガイドさんによると地方都市の一般労働者は、月給が2万円くらい、4人で働いて9万円くらいの家が普通とのことでした。帰国後、NHKテレビで、中国/深センだったかの都市でガードマンやっている若者が月給8,000円で1部屋10人くらいで2段ベッドに住み実家に仕送りもしており、ぎりぎりの生活をしていると報じていました。

 ガイド(男)さんいわく・・・一人っ子政策のため、弟が生まれたので両親は罰金約100万円を国に支払ったそうです。そのため、実家は貧しかったと言うことでした。一人っ子政策は、結局金があればいくらでも子供を作れるということ、政治というものは難しいものです。

 
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